「他人の目を気にしすぎて消耗し、何もできなくなってしまう」という辛さです。
それもHSP(敏感な人)気質という気質が手伝い、おそらく異常なまでに他人の目を気にしてきました。
どうやって抜け出したらいいのかずっと自分と向き合ってきたのですが、一向に解決できずに37年も過ごしてきました。
しかし、色々なタイミングが切っ掛けで、乗り越える事ができました。
この記事では、記憶の限りで幼少期からの生き辛さと共に過ごしてきた「黒歴史」と抜け出した「今」を公開します。
「他人の目を気にしすぎる人」がどんな風に物事を捉え、どんな風に考えているのか、そして「本当は気にしなくていい」ということにどうやって気が付いたのか、生い立ちに沿って書きました。
Contents
- 「のろま」すぎて怒られる幼少時代 〜なんかみんなと違う私〜
- 先生と友達に怯える小学生時代 〜学校が憂鬱すぎる〜
- 思春期の悩みが多すぎる中学生時代 〜学校も自分も辞めたい〜
- 変わろうとして頑張った高校生時代 〜先生が怖い〜
- とにかく全てが嫌だった大学生時代 〜極め付けのイヤイヤ我慢期〜
- 怒られる事に怯えまくる社会人初期
- 何かから解放されたつもりになっていた海外生活時代
- 今度こそ日本でしっかりやってやろうと帰国した後
- 憧れの?沖縄移住したのにどんよりする日々 〜こんなはずではなかった気がする〜
- HSPだと気が付いて希望が見えた
- 更に気づきを深める出来事が・・・
- 歴史を振り返ると
- HSPさんも非HSPさんも、きっと似た様な苦しみはあるかもしれない。
「のろま」すぎて怒られる幼少時代 〜なんかみんなと違う私〜
運動神経が悪い上に、確固たる自分のペースがあったため「のろま」と言われながら育ちましたが、周りと同じ様にしなければいけないという事にまだ気が付いていませんでした。
「のろま」で怒られることや比較されることが多く、その時はただその時だけ傷ついていました。
周りの友達が子供らしく活発に動くことを見ているのが苦手でした。
そして、私がみんなの様に活発では無いのは何でなんだろう?と漠然と考える様になり、みんなと同じにできないから怒られる事に劣等感を抱いていました。
また、この頃から、過敏に反応していた事があります。
- 靴の中に一粒の石のカケラが入ったりする程度でも気持ち悪くて仕方ない。
- 落ち葉の上を歩くのが気持ち悪くてできない。
- お風呂場を素足で歩くのが気持ち悪い。
- 大きな音や激しいもの全般が苦手。
- アレルギー症状(目がかゆい、喉がかゆい)
- 人(特に大人)が怖い
色々と過敏に反応すると神経質だと怒られる上、身体症状は気のせいだと流される。
特に、目が痒くてこすってばかりいると、すごく強く怒られました。
まだ、アレルギーという概念が定着していなかった頃だったので仕方ないですけど。
他、父親が自分の機嫌で怒ってばかりいる人だったので、父を怒らせない様に色々悩んでいました。
先生と友達に怯える小学生時代 〜学校が憂鬱すぎる〜
集団行動の教育の影響で、本格的に「みんなと同じ様にしなければいけない」という風に思う様になりました。
体を動かすのは嫌いじゃないのに、激しいことや争いごとが苦手で、体育、ドッヂボール、長縄跳びが大嫌いで、許されるなら一生隠れん坊していたいと思っていました。
お昼休みの鬼ごっこでは、真っ先に女子トイレに入り、鍵をかけて静かに時を過ごしていました。
が、隠れている事が友達や先生にバレるんじゃ無いか?
どう思われるのか?
常に気にしていました。
ドッヂボールが嫌で学校をズル休みしがちになり、しかし休むと友達に陰口を言われるんじゃないか?と心配になる。
負のスパイラルを作り上げ、自分の居場所を見いだすことができずにストレスを抱えていました。
父親も仕事が休日である土日は鬼の様な父親に気まぐれに怒られる心配があったので、平日ズル休みするのが癒しでした。
が、仮病なので、布団の中に入っていないとこれまた親に怒られる・・・布団の中で読書やお絵かきをして過ごすのが好きでした。
高学年になると、他人の目を気にする癖が強くなり、多汗症(脇)になりました。
そしてまた、脇の汗染みが他人にバレない様に、年中無休の心配を始めます。
脇汗に関しては、体育の授業のある高校卒業するまで異常なくらい気にしていました。
気にするほどに、多汗症はレベルアップしていきました。
思春期の悩みが多すぎる中学生時代 〜学校も自分も辞めたい〜
クラスで1番遅かった初潮がコンプレックスになりました。
毎月行われる身体検査のたびに「なった人は手をあげてください!」と先生が聞いていたので、自分が最後だということを女子みんなが把握しているというのがなんとも嫌でした。
男子にも、学校中にも知れ渡るのではないかと、年がら年中、恐怖を抱いていました。
身体検査の日にズル休みすることも何度かありました。
しかし、休んだことを影で色々言われるのも嫌で、悩みを膨らませていました。
中学三年生でやっと来てくれた初潮。
がしかし、朝にソレを迎えたため、学校に初めて遅刻してしまいました。
そして担任の先生(体育の男教諭)に廊下で遅刻に対して怒鳴りつけられ、こんこんと説教を食らいました。
あの迫力は今でも忘れられないです。
あ?お前、遅刻がなんだかわかってんのか?あ?
社会に出・た・ら・・・・・く・び!だぞ!あ?
仕事だったらありえないぞ!あ?
お前の家で何があったか知らないけど、遅れてくるとは何事だ?あ?
謝って済むなら警察はいらねー!あ?
あ?反省してんのか?あ?
「あ?」のタイミングで肩を何度もどつかれながら説教されました。
先生、機嫌が悪かったのかな。
私はそんなにいつも怒られる生徒ではなかったし、遅刻も初めてのこと。
しかも理由が理由で当時の私からは言えなかったんです。
そんなことも手伝って、その先生の機嫌が四六時中気になるようになり、テストで良い順位を取ったらその先生が褒めてくれるから、そこまで頑張ろう!と意味不明な目標で勉強を頑張りました。
そして、頑張ったからといって私だけ過剰に褒められるなんてこともなく「自分の何がいけないんだろう?」と悩みます。
相変わらず、学校に行くのが億劫で、ズル休みを定期的に繰り返し、休んだら誰かに悪口を言われてるのではないか、また先生の機嫌を損ねて怒鳴られるのではないか・・・と心配する癖は継続してました。
中学くらいから風紀がうるさくなり、天然パーマ(癖っ毛)な私は、毎日ドライヤーで癖を伸ばし、整髪料で髪を固めていました。
しかし、これも整髪料を使っているというのが学校教育上の問題となり、先生に怒られ、怒られない様に気にしながら、固まらない整髪料を使ったり、髪型を試行錯誤したり、多大な苦労を施しました。
変わろうとして頑張った高校生時代 〜先生が怖い〜
みんなと違って散々グータラしてきた自分が嫌で、周りの友達に対する印象を変えたかったので、運動部(水泳)に入部しました。
中学では吹奏楽部員という名の幽霊部員で、体育もろくに参加せず、マラソン大会は仮病で欠席・・・なんていう見かけ上虚弱な中学生だった私は、高校で初めての運動部に飛び込むことに不安を抱いていました。
しかし、今変わらないと一生変われない気がして、本当は望まないのに、無理して入部しました。
毎日のハードな練習は、数ヶ月でなんとか慣れて「やっと活発な女の子になった!」みたいな自己満足はありました。
私、文化部じゃないぜ!運動部だぜ!みたいな優越感もありました。
しかし運動部です。
大の苦手な「争いごと」です。
勝つのも嫌負けるのも嫌。怒られるのが嫌。争うのがとにかく嫌。順位なんていらない。タイムなんて測らないでほしい。
辞めたいけど、辞めると言って周りから言われる色々が嫌。
もしかしたら何も言われない(止められない)かもしれないのも嫌。
嫌嫌でも三年我慢すれば終わる・・・希望の光はそこだけだったと思います。
また、仲間に恵まれ、一緒にいるのが楽しかったのが救いでした。
水泳部で毎日プールに入るので、髪の色が抜けていきます。そして、水に濡れるので、癖っ毛が余計にクルクルしている姿を人に見られることになります。
案の定、パーマ&髪を染めている疑惑にかかり、何人もの先生方から代わる代わる嫌味を言われました。
かなりチクチク言われ続け、そんなに疑うなら親に電話して確認してくださいと言ったものの、電話はかかってきませんでした。
あまりに言われるので、親に、学校に電話して説明してくれと頼んだけれど、もう大人なんだから自分で説明しなさいと。
しかし、私がいくら熱弁しても伝わらないんです。信じてもらえないんです。
なので、私自身もちょっと憧れていたストレートヘアを手に入れるべく、ストレートパーマをかける決断をします。
当時のストレートパーマは質も今ほど良いわけでなく、3〜5万円と、高校生が払うには厳しい価格。
お盆とお正月に入るお小遣いを全てストレートパーマに費やしていました。
そして、ストパーで痛む髪は益々茶色になり、益々先生から目をつけられるオチでした。
自分の髪は、癖っ毛だけど、アレンジ次第でパーマがかかった様にゆるふわに演出できるし自分では嫌いではなかったのですが、ゆるふわな癖っ毛だったことが学校的に問題だった様です。
もっとチリチリのジリジリの酷い癖っ毛だったらこんなことは言われなかったでしょう。
とにかく、先生に怒られるのが怖かった日々でした。
高校は義務教育ではないので、一定の出席率がないとマズイというのを念頭に置き、計算して定期的にズル休みをしていました。
とにかく全てが嫌だった大学生時代 〜極め付けのイヤイヤ我慢期〜
医療系の大学に入学しました。受験に合格したのは素直に嬉しく、大学生活も楽しいものだと期待していました。
親の了解を得られる進路(医療系の資格が取れる大学限定)しか進路に選ばせてもらえなかったのが大きな原因だと思います。
極論、本当に自分がやりたいと思って選んだ道ではなかったんです。
入学してみたら、学ぶ内容に全く興味を示せなく、その上勉強量も多い。
なんでこんなに難しいことやらなきゃいけないの〜!と泣きながら勉強していました。
中にはスパッと退学する同級生もいる中、私はというと「やめたいけどやめたら怒られるからやめられない」・・・歯を食いしばって四年を過ごしました。
辛すぎて学校に行けなくなる事も多々ありましたが、友達が出席を代返してくれたりして助けてもらっていました。
中には、私が通学しないことを怒る友達もいたので、友達に怒られない加減を本能的に計算してサボっていました。
大学までになると、先生が怒るという事がないので、恐怖の対象は気の強い友達でした。
優しい友達のおかげで順調に進級できていたのですが、最後の最後に卒業試験で不合格。半年留年することになりました。
みんなと一緒に国家試験を受けれない。卒業できない。ひとりぼっちになる。
留年したからといって、授業の単位は全て取ってあったので、学校に用事がない。
一人暮らしの自宅でやる事がない時間をボケーっと過ごしながら、ああもう私、大人として、社会人としてとんでもなく終わってる!と思いました。
働かなきゃダメだ。生きて行けなくなる。でも、国家試験も突破しないと怒られる。働いたら勉強がおろそかになる。
どうしたらいいんだ?
ここで一般的な国家試験浪人生は、国家試験予備校に通う選択をしますが、私の場合、親に怒られるのが怖くて、それを提案できずに通過してしまいました。
複雑な葛藤を抱きながら、自分にもできそうな仕事を探しはじめました。
医療系大学だから医療系の専門職しか選択肢がないと思い込んでいたので、そこに就けない情けなさもありましたが、社会には楽しそうな仕事が溢れかえっていることの方に心が躍りました。
求人誌に出ているイベントコンパニオンの仕事に飛びつき、そこでモデルという職業と出会い、きらびやかな世界にハマっていきました。
それも、親に申し訳ないという罪悪感とともに。苦笑。
怒られる事に怯えまくる社会人初期
東京で一人暮らしのフリーターは経済的に大変です。
モデルをやりたい一心で、融通の利くバイトを探し、夜の仕事(ホステス)も含め、いくつかの仕事を掛け持ちしていました。
が、睡眠時間3時間で昼も夜も休みなしに働いていた私、パニック発作を起こし、働くことができなくなりました。
病院へいくと鬱を伴うパニック障害と診断されました。
が、本当に鬱だったんでしょうか?
一応処方された抗うつ剤や安定剤、睡眠導入剤は服用していましたが、2ヶ月くらい実家で食っちゃ寝して休んだら、ケロっと回復。
そして仕事に復帰します。
モデルの仕事では、当然、外見までも指摘されることが多いので、痩せた太ったと常に言われ、どちらかというと痩せてる方が望ましかったので、ちょっと太ったと言われたら絶食して痩せるようにしていました。
クソ真面目に言われた通りに体重をコントロールしていました。
それも極端に、173cm49kgで太ったと言われた時は、43kgまで体重を落としました。
見るからに、骨皮筋子さんですよ。
一旦は痩せたことに褒められましたが、洋服のサイズが合わないという理由で仕事が取れなくなったということから、痩せすぎだと怒られる始末。
努力が空回りしたのがストレスになり、ストレス食いに走ったゆえ、今度は56kgになります。モデルにしたら太いです。
ストレスはあるものの、減量は苦手ではなかったので、根性(絶食)で体重を元に戻しました。
とにかく、怒られて怒られて指導されたので、怒られないように怒られないようにと必死に頑張っていました。
職業柄、仕方がないのかもしれませんが、
そんな風にしたら〇〇な風に見られちゃうよ?
もっとお洒落しないとモデルに見えないよ?
バイトしてること隠さないと仕事できないと思われちゃうよ?
他にも沢山、人目を気にせざるを得ないような事を言われ続け、それをいとも真面目に受け止め、できない自分に苦しむ日々でした。
洋服も破産寸前まで買い漁り、食事の質もおもろそかにして、表面だけの美容に投資。
働いても働いてもてもお金が足りない上、モデルの仕事を優先するので、バイトをドタキャンする事も多く、バイト先で非難され、時にもう来なくていい・・・とまでになるのが辛かったです。
バイトをドタキャンしたらどう思われるか、怖かった。
何を優先しても犠牲になるもう一つがあるのが辛かった。
また、夜のバイトではお客様から体を触られたり、手や顔を舐められたり、下半身を見せつけられたり・・・という過激なセクハラを受けていましたが、サービス業、これでお金をもらっているのだから、お客様を不愉快にさせてはいけないと信じていたので、我慢に我慢を重ね耐えて居ました。
今思うと、普通に警察呼べばよかったのに何故その発想に行き着かなかったんだろう。
彼氏が欲しいけど、こんなに危ない仕事で心配されるのだろうと考えると、彼氏作れない。
かといって、働くのをやめたら生きて行けなくなるし、夜働かないとモデル業に専念できないし・・・で、何故かそれなりに出会いはあったものの、彼氏を作る事ができませんでした。
夢を抱いて好きでやっているはずの仕事が辛くて仕方ない。
自分が社会でやっていることに一つも満足できない。
パートナーも作れない。
嗚呼、いっそのこと、私の人生を休みたい。
とても辛いけど、こんなダメな私が恥ずかしすぎてとても家族にも相談なんて絶対にできない。
悩みを話す場所がありませんでした。
疲弊した私は、モデル業をストップし、夜の仕事も辞め、普通に昼に派遣の仕事をして、夜は合コンへ行き、普通に普通の20代を楽しもうと路線を変更しました。
すると、収入が減ったのに高額な支出がなくなったことで、家計が落ち着き、なんとなく普通の20代のフリーターな暮らしになりました。
しかし、刺激が足りなくて退屈すぎる上、今度は、大卒という経歴を生かしていない(国家試験に受かっていない)自分が情けなくなります。
刺激を異性(彼氏を作ること)に向けてみたけど、長続きしない恋愛を繰り返して良いパートナーが見つからない。
みんなと同じ様にしないと彼氏ができない・・・と思い、大きな音やチカチカする光が苦手なくせにクラブに行って、カラオケに行って、お酒で頭ぶっ飛ばして周りに合わせてその場をしのぐ。
翌日は仕事にもいけないくらい疲れ、2〜3日寝込む。働かないとヤバイ!と焦る。
そんなことより、ちゃんとした彼氏ができないことにも焦る。
今度こそと思った相手が、一夜限りで去っていく。。。その繰り返し。
ああ、もし私がこんなにダメ人間ではなかったら、ちゃんとした彼氏ができて、幸せな結婚までたどり着くのかもしれない。
自分がダメだからこうなるんだ!・・・そうとしか思えていなかったです。
そんな辛く切ない思いを持ち続ける最中に「卵巣膿腫」が発見され、更に女性としての将来が不安になりました。
結ばれる事がないと感じていた恋愛にすがった私が悪かった。
自分の体を無駄にしてしまった・・・みたいに考えていました。
心は空虚感でいっぱい。
そしてまた結局、何をしたらいいのか分からず、モデル業を再開します。
伴って、夜の仕事も再開。
今度こそは、怒る人が居ないような環境を探し、自分の居心地を優先し、人脈を守りながらやるようにしました。
夜の仕事も、時給は安くても同伴ノルマや遅刻ペナルティのない職場を探しました。
そしたら、居心地の良い社会で活動できる様になり、私自身も機嫌が良くなり、自分をもっと開花させたい様なエネルギーが湧いてきました。
(ここまででは書いて居ませんが、私は書道を続けて習ってきていました。)
このタイミングで、個展の誘いを受けます。なんか面白そう!やってみたい!と思ったら、話が進み、東京で何度か個展をする運びに。
この流れの導きか、そのまま流れに乗って海外でも個展を行い、そのまま長く住みついてしまいました。
何かから解放されたつもりになっていた海外生活時代
宙ぶらりんな「モデル業」「大卒経験を生かしていない」というのを一旦放棄しよう!「書道」があるからそれで誰かに認めてもらえればそれでいい!・・・と覚悟したつもりで渡航しました。
で、スッキリしたかと思いきや、移住までしてしまって海外で活動している自分が、人一倍目立つ凄いことをしている様で、逆にとてつもなく怖くなります。
親にどう思われているんだろう?
先生に怒られないかな?
書道の仲間にどう思われているんだろう?
友達にどう思われているんだろう?
別に有名になりたいわけじゃない。
ただ、なんとなくやりたかっただけなのに・・・ただなんとなくだったからダメなの?
毎日、目がさめるとやってくる恐怖。恐怖。恐怖。
結局、何をしても、自分ではない誰かの目線で自分を評価しようとしていたんです。
ちょうどこの頃(2008年くらい)からFacebookに日本人ユーザーが増え始め、ネット上で友達と交流するのが普通になってきました。
そこで、やるんです、私は。
海外生活の様子を投稿して、日本にいる友達から「いいね!」獲得して喜ぶという浅はかなことを。
せめてプライベートだけでもすごいと思わせたい!と、当時の私は承認欲求が旺盛でした。
一気に日本人ユーザーが増えて、疎遠だった友達と関われるのが嬉しくて、今の私を伝えて認めてもらいたかったんです。
しかし、投稿した後に、気になるんです。
自慢してる風に見られないかな?(自慢してますから実際。苦笑)
この投稿どう思われるんだろう?
このコメント、知らない人がみたらどう思うんだろう?
・・・こんなに気にしているくせに、人を不快にさせるコメントでトラブルを起こしたりということもたまにありました。
ひどく相手の気持ちを気にする私は謝りまくりましたが、謝っても許してもらえなかったりした経験もあったので、それでまた自分を責めまくりました。
そして、その積み重ねがどうにもならない恐怖に変わって行きますが、海外で孤独なはずが友達と繋がれる安心感というメリットもあり、複雑な気持ちだけどSNSを「辞める」という選択はしませんでした。
どうにもならない恐怖は、どうする事もできませんでしたが、ある日、気分転換と思ってフラリと行ったヨガで妙に癒され、ヨガにどっぷりハマります。
書道して、ヨガをして、旅をして、大きな大陸(地球)を感じる・・・この南米での生活がとても好きでした。
この頃、ヨガ哲学に興味を持ち、世界でも類稀な「ヨガ哲学学科」のある大学にも通いました。
ただ、流れる様に生きているだけで、永遠にこの生活ができる訳ではないと思っていました。
なので、帰国したら、ヨガインストラクターの学校へ行こう!と決めていました。
資格を取ろうと思ったのは、日本は日本基準の一定の説得力のあるステータス(資格)が無いと通用しないと思ったからです。
日本の目を気にする私。苦笑。
今度こそ日本でしっかりやってやろうと帰国した後
6年の海外生活を終え、帰国してすぐ東京で約一年、ヨガのスクールに通い、思った以上に学びを受ける事ができました。
そして無事、ヨガインストラクターの資格をとりました。
しかし、インストラクターをするのが怖いんです。やりたいけど怖いんです。
海外での自由に癒されていた私ですので、まず、日本の社会に出るのが怖すぎました。
ミスしたら怒られるだろうし、上手くできなかったら怒られるだろうし、ちゃんとしていないとダメな気がして、とにかく怖いとしか思えませんでした。
また、帰国して落ち着いたら書道の先生の元に戻ると決めていたのですが、それも、怖くてできませんでした。
怖いものを我慢するのが無理というより、ヒエラルキーのある世界に自分の身を置くことが、不自由だとしか思えませんでした。
順応できなくて付いていけなくなった場合に言われるであろうあれこれを想像して怯えるのと同時に、属していないとプロではなくなるのではないかという不安もやってきます。
やっぱり、何をしようとしても怖くて不安でダメなんです。
そして、こうして色々に怯えて何もできない自分がどうみられるのかがますます怖いんです。
何をやってもダメなのに歳ばかり重ねている自分が、人からどう見られているのか余計に気になっていました。
それでも何かやらなければいけない。
何かやらなければいけないというプレッシャーを自ら作り、何もできない自分を責めてばかり。
そんなとき、ここぞというタイミングで、とても傷つく出来事があります。
この時に出会った人から、肉食の否定、動物愛護精神など、そういったジャンルの会話から、私が学ぶヨガは本物ではないというお話をしつこいくらい聞かせれていました。
そして、Facebookでその人の挨拶投稿の様な投稿に容赦無くタグ付けされます。ほぼ毎日。
誘いを受けて参加したある集いは、Facebookで知り合ったという、Facebook命な人だけが集まる年配者中心の謎の集い。
その時私はFacebookがどうにもこうにも気持ち悪くて怖くなり、突然Facebookを辞めました。
(伴って、連絡がつかなくなった海外の友達が沢山いて、遣る瀬無い思いです。)
彼女との交友を続けるうちに、やがて、肉食のカルマの話が本気で怖くなりました。
悪いことをしたら必ずバチが当たる。宇宙は全てを知っているから。
この考え方を肉食(悪い事)と結びつけるやり方が脅迫的で本当に恐ろしかったんです。
そしてふと、当時所持していた動物性の所持品(革ジャン・革靴・羊毛のニットなど)と、書道の筆200本くらい全て、怖くなって捨ててしまいました。
捨てた後、何とも言えない悔しさが込み上げてきて、気持ちのやり場がなくなり、またそんな大胆なことをしてしまった自分が怖かったです。
筆を捨ててしまったのだから、書道もできない。新たに買うのもカルマが怖い。でもやりたい。できない。やるの怖い。
今まで私のことを書道家だと思ってきてくれた人にどう思われるんだろう?
ヨガ講師もやりたいと思ってたのに、本物じゃないならやってはいけない気がする。嘘を教えてしまったらと思うとますます怖い。
辛すぎて、彼女とはもう連絡を取ることすらできなくなり、最後になんか怖いこと言われたけど(詳細忘れた)、最後に言われたことに心底傷つき、数日間号泣し、この一件は終わりました。
その後、心が立ち直ってきたところで、何かやりたいし、心機一転生まれ変わりたい!という一心でブログを作ってみたものの、覇気が湧かず、更新が滞るとそれをまた自分で責め、余計に消耗して余計に書けなくなると言う風になりました。
不器用な私だからこそ、なんとか稼ぎにつなげたいから立ち上げたブログ・・・文章を書くのは苦手ではないけれど、テンションが伴わずに書けないから当然稼げない。
そして焦る。自分がいけないのだと責める。
何をしてもまた、このループにハマってしまっていました。
やがて、自分を責めることすら疲れた私は、四国八十八ヶ所を巡礼し始めます。
生きる核心に気がつくまで、ネガティブな自分から気を逸らす作戦です。
巡礼中は心が洗われ「そうそう、それでいいのよ、そのままでいいのよ、私」という気分になりました。
が、巡礼が一周終わったら、また元に戻るんです。
本当にどうしていいか分からず、二周目の巡礼を行いましたが、やっぱり終わると元に戻るんです。
人生がこんなもんだったら、みんなよく生きてられるよな。
死にたいと思って死ねる人って楽でいいな。
消えたいだけでは死ねないからしんどいんだよな。
精神的にとても苦しくなっているのに、自分が怠け者だからこうなっていて、それが恥ずかしいと思っていたので人には言えませんでした。
精神的にしんどいと、身体も強張って動かせなくなるし、朝起きるのも辛いし、毎日がひどい肩凝りに、時々ぎっくり腰。
ろくに稼ぐこともできないくせに悠々とマッサージ通いする罪悪感。
そんな私を見て、他人はしっかりしろと言うし、そんな風に言われたりするから、他人にどう思われているのか余計に気になる。
日々が遣る瀬無い。何もできなくてとにかく焦っていました。
そして、日本の冬がすごく寒い。
ただでさえ、不安や恐怖で体が萎縮して血流が悪いのに、寒さで余計に身も心もおかしくなる!
もう少し寒くない地域に住みたいなぁ・・・
そんな気持ちがあったので、潜在的に沖縄移住の方に動いていたのだと思います。
憧れの?沖縄移住したのにどんよりする日々 〜こんなはずではなかった気がする〜
沖縄の良い環境で体調もよくなるかもしれない!と期待していたのですが、引っ越したばかりの時に体調がドーンと悪くなりました。
と言っても、身体が怠いとか、冷えが辛いとか、未病というジャンルの症状です。
もちろん環境変化や引越し疲れも関係しています。
そして、突然、怪奇現象を勃発させました。
何もないところで火傷をするとか、見知らぬ髪の毛が大量に落ちているとか、摩訶不思議な金縛りにあうとか・・・言葉で説明するだけではなかなか信じてもらえない現象です。
今まで感じることのなかった感覚が、何かを感じ取り、良いことならまだしも、怖い事(交通事故など)に繋がる・・・霊能者さんに助けてもらう様なお話です。実際にお祓いをしました。
なので、沖縄に移住してからも、特に気分が爽快になった様なことはなくて、自分の行いを他人がどう思うのかが気がかりで仕方ないのは引きずっていましたし、自分がダメだからいけないんだ!という考え方から抜け出せずにいました。
他人の目を気にする癖が悪化し、SNSが怖くなり、目覚めとともにやってくる恐怖。当然、ブログの更新も恐る恐るです。
どうしたもんだ・・・
謎すぎる私・・・
変わりたいけど変わり方がわからない!
私はずっとフリーターでなんとか生き延びてるし、海外移住、沖縄移住までして、なんだかすごく自由な人生生きてる様に周りの人は思っているみたいだけど、私、全然そうじゃなくて恥ずかしい。
またしても自己否定を始めます。
他人に褒められたり、羨ましがられたりするのが逆にプレッシャーに感じていましたし、ここまで長い間自分を見失って彷徨っていたのですから、かなり混乱していました。
HSPだと気が付いて希望が見えた
そんな時に一冊の本と出会います。
アレルギーや過敏症でかかっているクリニックの本棚に「敏感な人向け」の書籍が置いてありました。
自分には関係ないと思いながらもペラペラ見ていたら・・・・「私のこと?」と思いました。
その後に自分で購入した似たようなジャンルの本を読み、心がスーッと軽くなり、自分を認めるということがどういうことなのか、腑に落ちました。
クリニックの先生にそれをお話したところ、先生も「HSP(敏感な人)」に対して理解があり、他にもおすすめな書籍を教えてもらい、何冊か読みました。
それからというもの、自分の中で、自分という人間がどういう人間なのか、腑に落ちる解釈や判断ができる様になり、自分の取り扱い方、可能性の伸ばし方などがわかる様になってきたんです。
もがき苦しんで変わる必要なんてないんだ!そう思えてとても楽になりました。
私は「ありのまま」で良かったんです。
それまで「ありのまま」を知らなかっただけで。
更に気づきを深める出来事が・・・
また、移住してこの一年以内(2018年)に私は卵巣腫瘍が大きくなったので手術で左卵巣を摘出しました。
それとは関係ありませんが、その1ヶ月後に、父が他界しました。
気がかりだったもの2つが立て続けに無くなりました。
無くなってみて、今までどれだけ気にしてきたのか分かりました。
私が気にしていた他人の目線の6割くらいは父の目線だった様です。
卵巣腫瘍は症状には現れないものの、系捻転しない様に、小さくなってくれる様にと常に気にしていました。
その様な経験を経た今では、
父がどう思うか考えてみて
「あ、お父さんもういないんだったわ!」
卵巣を心配してみて
「あ、手術したんだった!」
という感じで、つい、いつもの癖で考えると同時にハッとできるんです。
もう、他人の目は気にしなくていいし、病気も無駄に心配する必要がない。
人目を気にしないコツ、心配をしないコツ、の様な感覚も少しずつ得られる様になっています。
とても悲しい出来事でしたが、この出来事とともに、生き辛かった私はますます解放に向かっています。
そして、モデル業に復帰しました。
やっぱりやりたい事なので。
歴史を振り返ると
本当によく他人の目気にして生きてきました。
それすら当たり前と思って生きてきました。
それが自分だと思い込んでいたので、気がつく事ができませんでした。
変わりたい一心で、世の中の啓発本やスピリチュアルな事に奔走していたことがありますが、苦しくなる一方でした。
とにかく、世間一般が認める「できる誰か」になりたかったんです。
しかし、それよりも先に自分がどんな人間なのか、気質も性格も体格も全て分析し、自分ってそういう人なんだと認めることが必要だった様です。
自分がわからない状態で「ありのまま」「そのまま」「いまここ」とか言われても、わかりません。
自分がわからない状態で「インナーチャイルド」の苦しみなんてわかりません。
逆に、自分のことがわかれば、自分の労わり方、付き合い方も自然と見えてきますし、本当の自分を生きることが一番幸せだと気がつきました。
必要なのは哲学でもなく、スピリチュアルでもなく「自分を知ること」だったんです。
HSP気質である事が拍車をかけ、過敏に様々なことを我慢し、心配した結果、病気という形で身体が悲鳴をあげたこと。
敏感だから、アレルギーが出ること。
敏感だから、化学物質や電磁波に反応する感覚があるということ。
色んなことに納得しました。
とにかく、他人の影響を受けすぎていた。
この本を読んだ事で、私は、他人の影響を受けすぎていたということに更に気がつきました。
他人の影響をそこまで受ける必要がないし、影響を受けすぎて自分を見失っていたということを知りました。
そして、何故にこんなに異常なまでに他人の影響を受けすぎていたかというと、人一倍敏感な気質(HSP)が関係しています。
敏感ゆえに、周囲のことを感じ取りやすく、多くのことをキャッチしてしまっていたんです。
うまくいかないことは全て、自分か他人かその他の何かのせいにしようとしていた。
うまくいかないことばかり続くと、原因を外に追求し始めるんです。
外といっても、他人だけではなく、天気、環境、病気など色々。
とにかく言い訳を見つけて説明つけないと、他人にどう思われるかが気になるんです。
最悪、自分のせいにしたところで毎回同じ結末。
結局変わる事ができない。
他人のせい、他の何かのせいにしたところで根本が解決できない不満だけが募る。
極論、自分が自分に気がつかなかった自分のせいなのですが、気がつくための教育、考え方など触れた事がなかったので仕方なかったと思います。
HSPの書籍が出版される今だからこそ救われた様なもので、昭和初期以前に生まれていたら、一生生き辛さを抱えていたかもしれませんね。
「自分が無い」「自分の軸がない」「精神的に自立していない」の意味が分かっていなかった。
「自分軸」とか「自立」とか、よく出会うキーワードですし、分かったつもりでいましたが、
いざ他人から「自分が無いね」と言われると、全然感覚が掴めなかったし、そんな事ないのに!と苛立ったこともありました。
そもそも「自分が無い」ことなんてあり得ないと思っていましたので、想像付かないんです。
そして、流され、振り回されている自分が自分だと思っていましたし、経済的に自立することが精神的に自立することとしか思っていませんでした。
「弱い」「根性なし」「神経質」「変わってる」のは悪いことではなかった。
親からも友達からも学校の先生からも、子供の頃によく言われていましたし、子供の頃はこの性質を自分で認めていました。
ただ、それじゃいけないんだという思いこみを、成長過程で作り上げていき、生き辛さを生み出してきました。
弱いから、嫌なことから逃げる。
根性が無いから、辛いことが続かない。
神経質だから、些細なことに過剰に反応しやすい。
変わってるから、みんなと同じにできない。
これが全て悪いことだと思っていたんですが、そうでも無いと知りました。
嫌なことはそもそもやらなくていい。
辛いことなら続ける必要ない。
些細なことに反応するほど感受性が豊かな性質はアート(書道)に生かされている。
みんなと同じじゃないからこそ出来ることがある。(良い意味でも変わったことができる)
全ては自分が好きな様に決めればいい。
死にたいくらいに悩んだけど死ななかったのは鬱病ではなかったから。
私には「消えたい願望」があっても、「自殺願望」がなかったんです。
どうしても消えてしまいたくて、
明日起きた時、死にたいと思えて行動(自殺)できたらどんなに楽なんだろう?
明日起きたら“自殺願望のある私”に変わっています様に・・・
そんな風に思うことは、つい最近までしょっちゅうでした。
確かに鬱々して過ごす期間が長いので、自分でもうつ病なんじゃないかと疑いましたが、本当にうつ病で辛そうにしている人とはまたちょっと違った鬱感なんです。
しかも、子供の頃から抱えている感覚です。
とにかく外部からの刺激に敏感で、人目が気になって疲弊していく感じです。
HSPだと分かってから認める事ができた自分のあれこれ
なんとなく続けてきた書道もアート表現として、人とは変わった新しい表現ができるんだと自信が湧いてきました。
他人の目を気にするのをやめて、自分を楽しませたい!と本気で思う様になりました。
私の意識が「他人の目」から「自分の目」に変わったんです。
本当の自分を発揮して、自分の目の前の世界が変わるのが楽しみです。
そもそも、こんなに自分の黒歴史を赤裸々に文章にして公開するだなんて、ちょっと前の私からしたら考えられませんが、今の私からしたら過去の私が別人の様に思えるんです。
沖縄移住した事が一つのネタになると気がつきました。
沖縄移住ってある種の憧れの分野であることも知っていましたが、こんな流れでなんとなく移住した私です。
沖縄移住だぜ!ウェ〜い!とかいう楽しいテンションにならなかったんです。
ですから、『私は沖縄移住をした人です』という自覚があまりなかったです。笑。
これから移住したい人や、観光に訪れる人が知りたい情報など、ここに住んでいない人よりも、住んでいる私には伝えられる事が多くあるので、たくさん記事を書こうと思っています。
持ち前の才能を伸ばす方向に生きていけばいい。
- 苦手なことは苦手だと認識して寄り添いながら、得意なことを伸ばす。
- 小さな成功体験を積み重ねれば自己肯定感も上がる。
- 敏感だからこそ、些細な幸せをたくさん気がつく事ができる。
この本を読んで、自分の可能性をたくさん感じ始めました。
やっている事が合っていないから上手くいかないのではなく、考え方や接し方にアプローチ方法が色々ある。
今のままの私で全然大丈夫!と思うことができました。
HSPさんも非HSPさんも、きっと似た様な苦しみはあるかもしれない。
同じ様に苦しんでいる人がこの記事を読んで、ご自身なりのターニングポイントに気が付いてくれたら、私は生き残ってる甲斐があります。笑。
HSPだから私がこんな歴史を積んだ・・・という訳ではなく、HSPだから多くのことにいちいち過敏に反応しすぎていただけで、非HSPでも、似た様な悩みがある方もたくさん居ると考えています。
HSP(敏感すぎる)という “気質” は変わることはありませんが、他人の目を気にしすぎるタイプにありがちな「素直さ」「優しさ」「真面目さ」などの “性格” はコントロールすることができますし、変わることも可能です。
しかも、それらは長所でもあるので、自分の守り方、自分との付き合い方を変えていけば、他人目線に惑わされることも、洗脳される事もなくなります。
誰だって、人に流され、影響され、自分を見失って困っている人もいると思います。
だけど、絶対大丈夫です。
なんか毎日がずっとおかしい!
とにかく生き辛い!
自分の星に帰りたい!
そんな風に悶々とされている方、私と似通った体験されている方に、声を大にして言いたい。
必ず生きやすくなれます!
苦しんでいる方々に「気づき」の光が訪れます様に・・・
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