ヨガをしていて、時々振り返る、ヨガの八支則からのこぼれ話。
(ヨガの八支則とは、ヨガスートラに書かれている基本的な教えです)
いつもいつもそれを頭で考えているよりも、忘れた頃に振り返るとハッとすることが多いんです。
今日も久しぶりに振り返ってみて、毎度のことですが、本日も新しい気づきがたくさんありました。
さて、私は、瞑想は好きだけれどアーサナ(ヨガの体操)が嫌いです。笑。
アーサナは瞑想を深めるための修練の一部なのですが、何せ、エネルギーが落ち気味の時は腰が上がらず面倒臭いんです。
瞑想はもっと深められたらこの上ありませんが、現状でもできてはいるので、難なく続けています。
(というか、瞑想はやらないほうが「難」です^^;)
これまでの私は、やらなきゃと思ってアーサナをやっていたことが多かったかもしれません。
スタジオに行けばヨガ(アーサナ)ができるから行こうとか。
綺麗にポーズとれたらかっこいいから練習しようとか。
スタイルを良くしたいから運動しようとか。
とか、とか、とか。
ああなりたい、こうなりたい、こう見られたい・・・とかいうエゴを隠す様にヨガをくっつけて、ヨガをすることで何かを誤魔化していたのだと思います。
なので、心の奥底では、面倒臭い!という私がいたことは、分かっていたのに無視していました。
『面倒臭い!という私』これ、もう一人の私であり、本当の私です。
(分かっていたのに無視していた私は、エゴや周囲に影響されて考えが歪んでしまった私です)
誰のために、何のためにヨガをしてきたのだろう。笑。
自分のためにだし、いや、自分のためにヨガをしてきたはず。笑。
自分って私・・・だよね?
でもなんか、自分、何人も居ないか?
色んな自分が押し問答スタート。
私は、何の疑いもなく、色んな自分の全てが本当の自分だと疑わずに生きてきた様だ。
経験や気づきを積み重ねてやっと、自分の中に本当の自分が居るのではないかと気づき始めた。
ここで自分という存在に違和感発生。
じゃあ、一番大切な自分って誰?となると単純明快。
『本当の自分(本来の自分)』なんですよね。
そう、何より誰より、本来の自分がヨガすることが大切なのです。
違和感があったのはアーサナからのお話だけではありません。
例えば、
アヒムサ(非暴力・不殺傷)
私は、単純明快に、ベジタリアン、ビーガンになり、そこに拘るあまり日常をややこしくしてしまい、結局ストレスを感じた経験があります。
自分の感じる心を犠牲にしていた、つまりは自分の心身に自分で暴力を振るっていたような気がします。
アスティヤ(不盗)
他人の「モノ」は盗みません。
他人のエネルギーも盗まないように気をつけつつ過ごしています。
が、つい消耗的に頑張ってしまった時、自分で自分のエネルギーを盗んでいるのでは?とハッとします。
サティヤ(嘘をつかない)はいかがでしょう?
他人には嘘をつきません!
(と言いたいところだけれど、ついて良い嘘と自分で思う範囲の嘘はついていますなぁ。苦笑)
ついて良い嘘とかそういったお話は各々で線引きが難しいので割愛させていただきますが、
他人にどうこう以前に、私、自分に嘘ついてるじゃん!というところがツッコミどころ。苦笑。
嫌だけど頑張るとか、
大丈夫大丈夫って自分をなだめてなんとかやり過ごすとか、
昔と比べてそのレベルは下がってきているものの、日々の随所でこんな風に過ごしている私がいる。
・・・・と、全て例にあげたいところだけど長くなりすぎそうなのでこの辺まで。
私はこれまで、独りSMの様なヨガをやってきたんだ、と気がつきました。苦笑。
頑張らない。
本来の自分(内なる自分)は頑張らないでいつも一緒に居てくれる。
だから、この私は、内なる自分に波長を合わせて、一体化していけば良いのだ。
つまりは・・・?
頑張らない。
自分の中に鎮座している仏の様な自分。
人はそれを神と言ったり、宇宙と言ったり、魂と言ったり。
向かう先はそこ。
そうだよね、死んだら仏になるのだもの。
さてと、もう一人の自分にヨガをさせてあげよう。
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